うなぎのみやげ

散歩していると、うなぎ屋に出ている「おみやげ」という看板が目に留まった。
一瞬、うな丼のキーホルダーのようなグッズを想像したが、要はテイクアウト対応していますということだ。
東京ではあまり見ない表記だけど「持ち帰り」「テイクアウト」というより「おみやげ」という書き方は持ち帰る相手への心づくしのようなニュアンスがあっていい。(自分用に持ち帰って食べる場合には若干そぐわない表記な気もするが)

 

サザエさんで、酔っぱらった波平が手に弁当箱のような「おみやげ」を持って帰ってくるシーンを思い出す。

新しく包んでもらったお寿司ならまだしも、宴席で残った料理を詰めなおした場合もあるらしい。今の自分が宴席の食べ残しを家に持ち帰ったら、妻には「そんなの要らないから持って帰ってこないで!」と言われそうだ。

 

sieze the past

mellowl(メロル)というアルコール飲料の開発秘話をニュースで見た。
「あまり深酒したくない」「アルコールがそんなに好きではない」というZ世代のニーズを受けて開発した、低アルコールのカクテルらしい。
開発はアサヒビールと低アルコール飲料ベンチャー、シーム社だ。
コンセプトを語ったプレゼンでは、Z世代の価値観、好きな瞬間に寄り添ったことが強調されていた。
曰く、

  • 無理に背伸びした幸せではなく、日常の延長にある居心地のいい瞬間が好き
  • あとから振り返って、あのときエモかったな、と思えるような瞬間が良い

とのこと。

 


はたしてこれはZ世代の価値観というべきか、あるいは今のZ世代かつアルコールの開発会議に呼ばれる人と言えば20代なりたて、そして企業の開発会議に協力的な層の大学生が多いと想像される。

そんな大学生特有の価値観なんじゃないかとも想像される。

 


自分が大学生で一人暮らしをしていたころ、そんな価値観をもっていたか?

「友達と家で飲みながら話している時が一番好き。あっという間に時間がたつ」という記述を何かで読んで、同じ年代だった自分も深く共感した覚えはあるものの、詳細に当時の価値観を思い出すことはできない。

 


後から思い出して「あの瞬間エモかったな」という価値を見出すということは、エモい瞬間は普段の日常にありふれているものじゃないのだろう。

当時過ごした時間の中で、30歳を超えた今の自分が過ごす時間とは決定的に違う瞬間はいつだったか?コミュニケーションのプロトコルが、20代のその時と、今の自分でどう不可逆的に変わってしまっているのか?

 


30代の今の自分を、40代になって振り返って、30代のあのころはこうだったなと喪失に気づくものがあるか?

 


後から振り返ってしか価値に気づけない、喪失してからでないと分からない価値を愛でることは、生き方を幸福にするか?それとも後悔のニュアンスを残すだけなのだろうか?

よそよそしいもの

内装や小物にこだわっているカフェやレストランでも、無造作に置かれがちな市販品がある。

手指消毒液の入ったアルコールボトルだ。

大体、ドラッグストアで売られている見た目そのままのものが入り口近辺にドンと置かれている。

オシャレなボトルに移し替えている店はほとんど見たことがない。

 

一つは、それが消毒液だと誰の目にもとまって、伝わらなければいけないためだと思われる。

 

もう一つは、消毒液のボトルを正式なメンバーとして店にお迎えすることに心理的な抵抗があるからじゃないかとも思う。砂糖入れやティーカップ、お手洗いのハンドソープ入れと同じ仲間として、これから末永く一緒にやっていこうという気持ちになりにくいのかもしれない。

 

半年後には不要になって、いらなくなる予定のもの、として消毒液のボトルが迎え入れられて、そのまま数年間、よそよそしい関係が続いているような気がする。

さじを投げない

茶店でブログを書いている。

昔読んだ本に「ティースプーンに語りかける」というフレーズがあったのを思い出した。

ただのティースプーンであっても興味を持って眺め、色々と考え事をするような好奇心を持てば世の中が変わって見えるはずだというような意味だった。

 

気の利いたフレーズだと思いつつ、実践したことはなかったのでやってみた。

 

金色の細いスプーンで、柄の先端がループ状になっている。ただの装飾のループなのかもしれないが、壁にかけたり、紐に通して持ち運ぶためのループにも思える。スプーンを壁にかけたいと思うのは、そっちのほうが先端が物に触れなくて衛生的だからだろうか?

ちなみにスプーンみたいにシンプルなものにも各部名称があるのだろうかと思って調べたら、先端の丸い部分を皿とか壺とかと呼ぶらしい。スプーンの先端がまたミニチュアの皿になっているかと思うと、皿のカレーをスプーンですくう様子がどこまでも続くエッシャー的な風景にも思えてくる。

伊丹十三がエッセイで「スプーンなんてものは人の手をそのまま道具に模した野蛮なものであって、それとくらべて箸のどれだけ文化的なことか」というようなことを書いていた。が、改めてスプーンをよく見てみると、口に当たる部分の曲線であったり、華奢な柄の装飾だったり、工芸品としてきちんとしている。これをそもそもの起源が手だからという理屈でくさすのは暴論である。世にいう発生論の誤謬※というべきだ。

(※出自がXなものは本質的にXだという暴論。アメリカはネイティブアメリカンを侵略してできた国だから今でも本質的に侵略的なのだ、というような)

 

 

思ったよりも暇は潰れたが、別のスプーンでも同じだけ暇が潰れるかと言ったら自信がない。ティースプーンを見て暇をつぶすというのは人生で一回しかできないことで、それを今晩してしまったのかもしれない。

季節が終わらない

海外ドラマを見ていて「それはアリなのか?」と思うこと。

シーズンの最終エピソードで物語が完結するんじゃなくて、色々な伏線をそのままにしたまま、一番の目的も達成されないまま、主人公のピンチで話が終わる。

ジェットコースターの途中で急に終わる感じである。

 

日本のドラマではシーズンが終わることと、物語が一応決着することはほぼ同期していると思う。が、海外ドラマではこういうことがままある。

 

とはいえシーズ通して面白かったし、続きが気になるからシーズン2も見てしまうだろう。

 

物語を売っているんじゃなくて、ドキドキしながら映像に熱中することを売っているんだ、という割り切り方なのかもしれない。

 

たとえば、キャラクタが魅力的で展開がスリリングで、格好いい演出がついて、ストーリーはすべて夢オチというドラマや映画があったら自分は好きと言えるだろうか?

 

もしかしたら、見ている時間が面白ければ十分ありなのかもしれない。

自分探しをするなとアメスピは言う

タバコのアメリカンスピリットのキャッチコピーがなんだか記憶に残る。

コピーいわく

「自分らしくしか生きられない」。

 

自分らしく生きようという風潮にちょっと背を向けるような、そもそも人間って自分らしくしか生きられないんじゃないのかという投げかけにも聞こえる。

 

みんな違ってみんな良い、というポジティブな聞こえ方もするし、「仕事ばっかりで全然自分の人生を生きられていないと言うかもしれないけど、そういう生き方を続けているのは当の自分でしょ」という冷ややかな言葉にも聞こえかねない。

 

そうだとするなら、新しい生活や新しい経験を求めて現状の暮らしを抜け出すのは、自分探しというより自分以外探しと言ったほうが正しいのかもしれない。

 

ただ、その先で出会う色々な出来事の中で、何を快としてなにをノーサンキューとするのかは当の自分である。

 

普段の自分を捨てて、新しい経験にオープンになるが、何を持ち帰るか決めるのは当の自という中で見つかる「自分」とは何者なんだろうか。

 

自分らしくしか生きられないの主張は、「人間が自然破壊をしているというけれども人間だって自然の一部だ」という意見もちょっと思い出す。