ビルを剥く

混みあう繁華街で、ビルが一棟解体されていた。

隙間も無いほど密集している建物のうち、一区画だけがぽっかり更地になっている。
更地の両隣のビルや、奥のビルが、今まで人の目に触れてこなかった壁面を日光にさらしているのが印象的だった。
じめっと黒ずんだ壁面には窓やパイプ、非常階段が取り付けられている。これらは、今まではこんなに陽や風を受けることのなかったパーツだ。
また、「炉端焼き」という文字が書かれている看板もあった。昔、もっとビルが少なかったころに作られた看板だろうか?
少なくとも、今までは歩行者の目からは全く見えなかったはずの看板だ。

雑踏の町で、なんとなくビルが虫干しされているかのような、すっきり感のある景色だった。

短歌

陽を透かすショーウィンドウに脚をはり小さき蝶は羽を立ており

歩いていたら、ショーウィンドウのガラス面にシジミチョウが止まっていた。
こんなに滑らかで、引っ掛かりのない垂直面にも羽を立ててとまれるものか、と少し感心して眺めていた。心なしか、少しでも動いたら落ちてしまうかのような緊張感もあった気がするが、おそらくシジミチョウ的には余裕なのだろう。
分厚くクリアなガラスに蝶がとまっていると、空間の中で羽が静止しているかのような唐突さを感じた。
ちなみに、シジミチョウは感じで小灰蝶とも書くらしい。
小ささとグレイッシュな見た目を両方伝えられて良い記法だと思い、歌にも入れようとしたがうまく入らなかった。

寒風(さむかぜ)をうけて走れる小流れに白鳥の二羽首挿し込みつ
風の強い冬の日、白鳥の飛来地になっている川を見に行ったら、二羽の白鳥が川に浮かんでいて、首を水中に差し込みながら餌を探していた。
風の冷たさと、水の流れと、白々とした鳥の姿のすべてが寒々しく、こんなに冷える光景もなかなか無いなあと思った。

生活の短歌

ティッシュにも肌理(きめ)のあること眺めおり
肌という字を宙になぞった


ティッシュペーパーを見ていると、印刷用紙のような平滑な表面ではなく、柔らかくさらさらとした毛羽が立っていることに改めて気づいた。
表面感というか、テクスチャというか、これは「肌理」と呼ぶべき感触だなと思いつつ机の汚れを拭いていると、急に肌理という字に含まれている「肌」という字が生々しく思えてきた。うーん、肌かあ、という気分だ。
目の前に置かれている200組入りのティッシュボックスが、なんだか微妙に質量を増したようにさえ思えてくる……とまで言うのは言い過ぎか。
初めてtissueという英単語に出会ったとき、その語義に「(細胞などの)組織」と出ていて、ティッシュってそんな意味なの?と意外に思ったなあ、ということも思い出した。

午後10時無人の家の歯磨き粉
ひしゃげて残す力のかたち

夜に歯磨きをするとき、歯磨き粉のチューブが、朝に握りつぶしたそのままの形で洗面台に残っていた。朝の自分はこんな風に握ったんだな、という拳の形までしっかりわかる。そして醸し出す”力”の気配に、ある種の堂々とした印象を感じる。
誰もいない家で何時間も、歯磨き粉のチューブは朝に込められた力を残し続けていたこと、時間を超えて人間の気配や力の気配が残り続けたことを面白く感じた。

 

信号機たちは光で会話する
夜通しかけて二語の明滅

家の周りに信号機が多い。
なかなか青に変わらんなと思いつつ待っていると、ふと、向かい合った信号機たちがランプの点滅を通して互いにコミュニケーションをとっているのではという気がしてきた。
人間には気づかないほどの超スローペースで、少しずつ少しずつ、微妙に点滅のタイミングを変えることで何かを伝えあっているんじゃないかと。
交通事故のことを話す信号機、なんてモチーフはちょっとホラーっぽくもあるし、結構楽しいアイデアじゃないかと一人で満足していたら、後日、宮沢賢治が電車の信号が会話する童話を書いていたことを知る。
まあよくあるアイデアかと思いつつ、短歌にはした。

夜、ベンチに座る二人

夜の公園や川沿いのベンチにはカップルが座って小声で何か話していることがある。

付き合ってデートを重ねている二人だと、夜に話したければお店に入ったり、互いの家に行ったりすることが多いと思う。
ベンチに座って話す機会とは、交際する前後くらいの、ごく限られたタイミングでしか起こらないことなんじゃないかと思わせられる。

夜を払う

無数の街灯が夜を照らしている。
田舎道の、数メートル先は何も見えない闇を知っている身からすると、こんなにどこもかしこも東京の夜が明るいことに改めて驚きを覚える。

小さく見える一つ一つの街灯の力強さ。

雲を流す

川べりに座って雲を眺めているとき、雲量がある程度多いときだけできる遊びがある。
ゆっくり流れていく雲で視界を埋めながら、意識して、雲が流れているんではなくて、自分を含むこの地面の側がゆっくりスライドしている、と思い込むのだ。
子供のころ、回転ずしに行ったとき、流れているレーンだけを集中して眺め、「レーンが動いているのではなくて、自分の座っている座席の方が動いている」と思い込もうとした遊びのスケールが大きい版だ。
さすがにこの規模になると、なかなか成功しないし、成功してもその感覚は数秒くらいしか続かない。しかし、何かとりかえしのつかない力にズルズルと引っ張られて落ちていくような不思議な感覚になれる。

‥‥尽くせぬもの

図書館に行くと、1冊の本との出会いと同時に、何百冊との「生きてるうちに読めることのない本」との出会いがあると思っている。
月に20冊読む生活を60年続けたとしても、読める本は1万5千冊に満たない。
一方で、公立図書館の平均的な蔵書数は12万冊とも言われているらしい。
図書館で背表紙を眺める本のほとんどは、私が死ぬまでにもう読めない本なのだ。

ところで、街を歩いていると居酒屋や蕎麦屋、街のすし屋みたいなものも目に付く。
インスタグラムを見ていると、美味しそうなレストランがたくさん出てくる。
ふと、飲食店でも同様のことが起こっているんじゃないかと思って計算してみた。

子供のころと老後を除いた60年間を、外食を積極的に楽しめる期間としよう。
その期間、毎日どこかに外食しに行ったとする。朝食は対応していない店が多かったり、ランチは職場の近くで取らざるをえなかったり、等あるので、自由が利く外食として1日1回の外食とした。これを60年間続けるだけでも、相当極端な外食フリークである。

そこまでやったとしても、行けるお店は2万2千店舗。対して、東京都の飲食店登録は8万店に迫る。かつ、その中身は常に新規オープン、閉店で入れ替わり続けている。
そして大阪や名古屋、神奈川に足を伸ばせば、またいくらでも飲食店はある。

街を歩いていると、死ぬまでに入らない飲食店ばかりが目に入ってしまうということだ。
旅先にいけば、死ぬまでに2度と目にしない飲食店の看板も多いだろう。

 

曽根崎心中で、死にに行く男女が、すべてこの世の見納めと思って草木や空を眺めるシーンがある。そんなにありふれたものが2度と見られないなんて、と、死にに行く身のはかなさをうたうシーンではあるが、よくよく考えてみれば現代でも、2度と繰り返すことのない「死ぬまでの読み納め」「死ぬまでの食べ納め」「死ぬまでの見納め」はかなりカジュアルにあふれている。
死ぬまでに●●尽くせないものばかりである。